坊勢漁業協同組合
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坊勢漁業の道のり
兵庫県一の漁獲量を誇り、所属漁船約900隻をかかえる現在の漁業協同組合に至るまでの経緯をご一読ください。

独立気運の高まり

家島漁業協同組合より分離の経緯

戦時下の厳しい統制令の中、家島漁業協同組合からの諸物資の配給や配分、また漁業許可証等諸申請の遅れなど坊勢地区漁業者にとって非常に不便な点が多く、昭和18年1月10日、家島漁業協同組合坊勢出張所となりましたが、その年のうちに兵庫県知事へ単独組合承認を嘆願しました。
しかし当時家島漁業協同組合の役員は理事5名(組合長含む)、監事3名の8名で構成されており、そのうち理事1名、監事1名の計2名が坊勢側選出の役員であったため、家島側・坊勢側各5名の交渉委員を選出して漁業権の行使、補償金の配分、禁止漁具、操業上の調整事項などを協議し、昭和19年2月10日、家島・坊勢間に契約が締結され晴れて坊勢漁業協同組合がスタートしました。

▼昭和18年当時の坊勢

戸数:310戸
人口:1650人(うち漁業組合員163人、従業員272人。家島町の他の2地区、宮・真浦より多い)
漁業形態:打瀬網、ナマコ漕ぎなど (家島は延縄、一本釣りなどで、坊勢とは操業上のトラブル多々ありました)

分離及び事務所建設

分離及び事務所建設事務所の建設は岡田信太郎氏に依頼し、土地の造成は小浦タカノシタより打瀬天馬にて土を運び、小林米蔵氏、上谷春吉氏ら数人の手で行われ、家島漁業協同組合坊勢出張所がスタートしました。
その後、昭和18年10月坊勢漁業協同組合として単独許可されましたが、家島漁業協同組合との漁業権の使用、補償金の配分、操業方法等の調整については昭和19年2月に締結され、家島漁業協同組合から完全に分離し、広く一般に認知されるようになりました。
当初の事務所は昭和21年10月に焼失し、その後昭和24年、37年、48年に増改築され、現事務所は平成12年に増築されたものです。
尚、組合組織は昭和19年9月18日、坊勢漁業会が設立され、昭和24年、水産業協同組合法のもと坊勢漁業協同組合が設立されました。

試練の時代

独立当初の組合運営

独立当初の組合運営昭和18年1月10日より家島漁業協同組合坊勢出張所となり、実質的には坊勢にて販売所としての機能をはたすようになりましたが、実際の漁獲物の販売は現在同様、他港売(組合員が市場に直接売る形態)と自港売(組合員が仲買業者に直接売る形態)でした。
その後、組合で入札制を実施しましたが、次第に仲買人同士の談合の疑いがあるとして仲買人の総入替を実施し、旧仲買人には一切売らないことにしました。
しかしながら魚の計量を役員が行っていたこと、又、役員と仲買人の間に馴れ合いが生じているということなどの批判もあり、しばらく続いた入札制も継続出来なくなりました。
組合の運営資金は、歩金制度がなく会費で運営していましたが、その会費もなかなか納入してもらえず、組合長や専務が組合員宅を廻り集金していました。
歩金制は昭和36年、県水産課鍬方技師が駐在指導のとき導入されたものです。
組合職員の雇用は、組合役員が本人宅に行って勤めてもらえるようお願いするような状況でした。

組合経営の近代化

昭和36年5月、県水産課より鍬方技師が駐在指導に来ていた際、歩金制の導入、及び販売代金を他港売りも含め全て組合窓口精算とし、1.5%の歩金が確実に納入されるようになりました。
又、既に開設されていた油、資材、漁船保険に合わせて端数貯金、天引貯金を開設、貸付業務も開始され、組合員に対する一層のサービスの向上が図られました。その後も上架施設、給油船、冷蔵庫・・・と着実に事業は拡充していきました。

漁業形態の変貌

漁業形態の変貌 漁業において縛網、打瀬網などが衰退していく中、船曳、鯛吾智、鯛漕などすぐに消えてしまう漁種もありましたが、セキ板、ケタ漕など現代に継ぐような漁種を導入しました。
漁具の材質では藁から麻、綿、そして化学繊維へと変化し、耐久性が飛躍的に向上しました。
漁船においても手こぎ、帆船から機械船へと変化することで、より速くより遠くの漁場へ到達し、より強い力で漕ぐことができるようになりました。
ローラー等により作業能率が向上したこともあり漁業形態が大きく変貌しました。
一時は全国でも有数の生産量を誇るハマチ養殖も昭和35年頃より導入し、7ケタ漁業の推進として県が推奨しました。
「獲る漁業から育てる漁業へ」の転換が叫ばれ、昭和47年~48年の赤潮被害に到るまで、その隆盛が続きました。
しかしその後、やや方向が転換され漁礁設置・種苗の生産・放流を軸とした「つくり育てる漁業」へ、そして今日の「資源管理型漁業」へと移行します。
阪神工業地帯の形成と出光興産石油コンビナート建設、PCB問題など時代時代の波にもまれながら今日の坊勢漁業協同組合が形成されていきました。

そして成長の時代へ

新時代に対応

新時代に対応漁業基盤である漁港整備が進められるのと同時に、島民の住宅用地などの確保により急激に島はその様相を変化させました。
漁業者の生活様式も、より豊かさを追及するようになり、漁船においてもレーダー、オートパイロット、ロラン、プロッタ、魚群探知機等が装備され、船体はFRP 化、一部アルミ化が進み、漁種においてもハマチ養殖衰退後、海苔養殖、船曳網、はなつぎ網、カキ養殖と新漁種も導入され、底曳、船曳、海苔、磯端等の各協議会制度が確立、組合員意識も次第に資源管理の必要性を認識するようになって来ました。
組合施設においてもドッグ、冷蔵庫、漁具倉庫、荷捌施設、稚魚育成所、海苔採苗場等各施設の充実が図られ、姫路市の妻鹿には生鮮魚介類の出荷基地とすべく、家島町により水産物荷捌所が建設され、離島の弱点である消費地への販売拠点が本土側に設置されたことは組合員にとって大きな喜びの一つでした。
しかし今日の坊勢漁業協同組合の成長の要因は、やはり日々の組合員の生産努力と、それを続けるための資源管理と自主規制、それにつぎつぎと後継者を加入せしめた新漁法の導入にあります。
離島ではありますが、時代の流れと共に交通手段も日々発達し、大消費地を目前に好漁場を抱え、より豊かさを追い求め、その為の手段と施策を講じるよう日々努力を重ねる必要があります。

それから…

現在の坊勢漁協現在の坊勢漁協となりました。
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